7年という月日が経ち。







311日。




東日本大震災から7年という月日が経ちました。




こうしてブログで書かせて頂くのは3回目です。欅坂として活動するようになってから3回目の311日。



また思いをここで書かせてください。









私が東日本大震災を経験したのは13歳の頃でした。



忘れもしない姉の中学校の卒業式の日です。


あの日の記憶は鮮明に覚えていて、

目を閉じて思い出すと涙がこみあげてきます。


卒業式の日というのもあって家族全員で過ごしていました。

14:46お昼がすぎて一息付いてる時間。


私たち家族は外にいました。


携帯からなる緊急地震速報の音と共に大きな揺れが襲って来て目の前の道路は地割れが起き、立ってはいれずみんなで体をつかみ合ってしゃがんでるのがやっとの状況でした。


揺れは長くつづきました。


揺れが落ち着いてから家に帰る途中

古い木造の家は跡形も無くなっていたり

電信柱が倒れていたり

屋根の瓦が道路に散らばっていたり


自分の家はどうなってるのだろう?

近所のおじいちゃんおばあちゃんは無事なんだろうか?

たくさんの不安を抱えて帰宅しました。



家の中は入れる状況ではなく

通れる道を作るのに精一杯でした。


留守番していた犬は震えてて


眼に映る全ての光景が13歳の私には耐えられないものでした。




その日から生活のライフラインは全て止まりました。


飲食物は家にあるものを大切に少しずつ食べました。

水をもらうのにたくさん並びました。



部屋で過ごせるスペースをつくるまで

車で寝泊まりしました。

車内で聞いていたラジオからは


「津波9メートル」

「学校の屋上には約30人救助を待つ人がいます」


なにも言葉が出なくなりました。


その日はとても寒く雪が降っていて

その中でも外で過ごした人がたくさんいたんです。



翌日の配られた新聞を見てラジオで聞いた全てのことを確信しました。

新聞には津波の被害を受けた写真が大きく載っていました。


その時に今起きてる全てのことを知りました。







何日か経ち、私は父と津波の被害を受けた街へといきました。


小さな二階建ての家に大きな船が刺さっています。


おばあちゃんが何かを探してます。


自分の家の基礎に座りどこか眺めてる人がいます。


誰かの思い出の写真が泥まみれになっています。






なんでだよ

なんでこうならなきゃいけないんだ。


こんな一気に一瞬で多くの幸せを奪われないといけないんだ。



悲しいとか悔しいとか苦しいとか

そんな言葉じゃなくて

言葉にできないほど心が痛かった。





この東日本大震災では

とても多くのものを失いました。



7年経った今でもこの記憶は無くなることはありません。



そして、復興が進んでる地域もあれば全く進んでいない地域もあります。


大切な人を失っても前を向いて毎日一生懸命に頑張ってる人がいます。






私は今

欅坂46という素敵なグループで活動させて頂いています。

その活動の中でたくさんの出会いがあり

たくさんの方に支えられています。

そしてこうやって私の話に耳を傾けてくれる人がいてくれてとても嬉しいです。



東日本大震災を経験した1人として

東北出身、宮城県出身の1人として

そして、欅坂461人として

石森虹花として

これからも頑張っていきたいと思います。



どんなに微力だと言われたって

何かできることは必ずあるはず。


私も前を向いて1日でも早く全地域が復興できるように活動していきたいです。



これからも

大好きな宮城、東北にたくさんの元気を与えられるように頑張りたいです!






もう二度とこんな悲しみはあってはいけない。





311日午後246

黙祷よろしくお願い致します。





平成30311


石森虹花





読んでくださりありがとうございました。